やまゆり園事件から10年
2016年7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が命を奪われ、26人が負傷するという、日本の戦後史上でも類を見ない凄惨な事件が起きました。
事件の背景には、「障害者は社会に不要だ」という極めて危険な優生思想がありました。
あれから10年。
社会は本当に変わったのでしょうか。
東京新聞のインタビューで、重度身体障害のある参議院議員・木村英子さんは、「障害者が地域で当たり前に暮らせる社会」の実現を改めて訴えています。
「施設しか選べない」という現実
木村さん自身も、若い頃には施設で生活する可能性がありました。
インタビューでは、自らが過ごした施設で食事を与えられなかったことや、暴力を受けた経験についても語っています。
もちろん、すべての施設がそのような環境ではありません。
一方で、閉鎖的な環境では虐待や人権侵害が起きやすいという問題は、これまでにも繰り返し指摘されてきました。
恋愛や結婚、子どもを持つこと。
あるいは、「喫茶店でお茶を飲みたい」「会いたい人に会いたい」といった、ごく当たり前の日常。
そうした選択肢が施設生活では大きく制限されることもあります。
木村さんは、「障害者は施設で暮らしたいのではなく、地域で暮らすための支援が足りないから施設を選ばざるを得ない」と訴えています。
「地域で暮らす」は理想だけでは実現しない
近年、「地域共生社会」という言葉を耳にする機会が増えました。
障害の有無にかかわらず、誰もが地域で暮らせる社会を目指す考え方です。
しかし、その実現には理念だけでなく、具体的な支援が欠かせません。
例えば、
- 重度訪問介護などの充実
- 家族介護への支援
- 介護人材の確保
- バリアフリー住宅や交通環境の整備
- 地域で生活を支える相談体制
こうした基盤が整わなければ、「地域で暮らしてください」と言われても現実には難しいでしょう。
障害者本人だけでなく、介護を担う家族への支援も重要です。
家族が疲弊すれば、施設入所以外の選択肢を取りにくくなってしまいます。
支援は「コスト」ではなく社会への投資
木村さんは、障害福祉への予算は障害者だけの利益ではないと指摘しています。
介護報酬が適切に支払われれば、
- 介護職の待遇改善
- 人材不足の解消
- 新たな雇用の創出
- 地域経済への波及
といった効果も期待できます。
福祉予算は単なる「支出」ではなく、社会全体への投資という側面も持っています。
もちろん、限られた財源の中でどこまで公費を投入するかについては、さまざまな意見があります。だからこそ、必要な支援の優先順位や制度の持続可能性について、丁寧な議論を重ねることが重要です。
障害は「誰かの問題」ではない
木村さんは、「今は元気な人も、高齢になれば介護が必要になるかもしれない」と語っています。
障害は、生まれつきのものだけではありません。
病気や事故、加齢などによって、誰もが支援を必要とする立場になる可能性があります。
だからこそ、障害福祉は一部の人だけの問題ではなく、社会全体の課題として考える必要があります。
やまゆり園事件が残した問い
やまゆり園事件が私たちに突きつけたのは、「命の価値を生産性で測ってよいのか」という問いでした。
働けるかどうか。
利益を生み出せるかどうか。
社会の役に立つかどうか。
こうした尺度だけで人の価値を判断する社会では、誰もが安心して生きることはできません。
障害があっても、高齢になっても、病気になっても、「あなたがいてよかった」と思える社会を目指すことこそ、事件の教訓を未来へつなぐことではないでしょうか。
おわりに
木村英子さんは、「障害者も高齢者も地域で誰かに必要とされ、生きがいを見いだせるようになれば、今より優しい社会になる」と語っています。
その実現には、制度の充実だけでなく、一人ひとりの意識も問われます。
障害者を「特別な存在」と見るのではなく、同じ地域で暮らす一人の住民として受け止めること。
そして、支援を「負担」ではなく、誰もが安心して暮らせる社会を支える仕組みとして考えること。
やまゆり園事件から10年を迎えた今、私たちは改めて、「共に生きる社会」とは何かを考える時期に来ているのではないでしょうか。

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