「外国人を選別する国」に、日本人は住み続けられるのか

永住許可の厳格化で考えたい「制度への信頼」

8月9日、東京・高田馬場駅前で、外国人の永住許可を事実上抑止する出入国在留管理庁のガイドライン改定案に反対するアピールが行われた。

約80人が参加し、

「人生が不当に揺るがされる」

「日本の社会を支えている人たちが永住の可能性を絶たれる」

と訴えたという。

もちろん、外国人の永住許可をどのような基準で認めるのかは、国が決めるべき政策事項である。

外国人政策について厳しい意見を持つことも自由だ。

しかし、今回の問題を「外国人に甘いか、厳しいか」という話だけで終わらせてしまうと、重要な問題を見落としてしまう。

それは、制度への信頼である。

すでに日本で人生を組み立てている人たち

今回、入管庁が示した改定案では、永住許可について、日本人世帯の平均年収以上の継続的な収入などを求める方向が示されている。

これまでの報道では、従来の目安だった年収300万円程度から、大幅にハードルが上がる可能性が指摘されている。

ここで考えたいのは、

「外国人をもっと受け入れるべきか」

という問題だけではない。

すでに日本に住み、働き、税金を納め、家族をつくり、子どもを育て、住宅を購入し、将来設計をしている人たちがいる。

その人たちにとって、永住許可は単なる「外国人に与えられる特典」ではない。

日本で人生を続けていけるかどうかに関わる問題なのである。

「ルールを守れば、将来も日本にいられる」という信頼

外国人が日本で生活するとき、

「一定の条件を満たせば、将来的には永住資格を取得できる」

という制度が存在する。

もちろん、永住許可は自動的に与えられるものではない。

しかし、だからこそ、政府が示すルールには予測可能性が必要になる。

たとえば、

「この条件を満たすために頑張ろう」

「この資格を取得すれば、家族と長く日本で暮らせる」

と考えて人生設計をする人がいる。

ところが、その基準が短期間で大きく変更されたらどうなるだろうか。

「今度は何が変わるのだろう」

という不安が生まれる。

今回、高田馬場で反対活動をした人たちから、

「短期間で基準をころころ変える人たちは、生身の人間の運命をもてあそんでいる自覚はあるのか」

というメッセージが紹介された。

表現はかなり強い。

しかし、その言葉が投げかけている問題自体は無視できないと思う。

外国人政策は「数字」だけでは決まらない

外国人政策を議論するとき、

「何万人受け入れるのか」

「生活保護はどうするのか」

「犯罪は増えているのか」

「日本人の雇用に影響するのか」

といった数字の議論が中心になりやすい。

もちろん、こうした議論は必要だ。

しかし、外国人もまた一人の人間である。

日本に何年も住み、仕事をし、家族をつくり、地域社会の一員として暮らしている。

政策を変更するときには、その政策によって具体的にどのような人生が影響を受けるのかを考える必要がある。

これは外国人に特別な権利を与えろ、という話ではない。

人間を対象とする政策なのだから、人間への影響を考えようという話である。

「日本人のため」と「外国人をどう扱うか」は別問題ではない

もう一つ重要なのは、外国人政策が日本人だけの問題ではないということだ。

外国人労働者が働いている企業がある。

外国人の子どもが通う学校がある。

外国人が住む地域がある。

外国人が納める税金や社会保険料がある。

外国人と日本人が結婚している家庭もある。

つまり、外国人政策を変更すれば、日本人の生活にも当然影響する。

だから、

「外国人をどう扱うか」

という問題は、

「私たちはどのような社会をつくるのか」

という問題でもある。

私が一番気になるのは「日本への信頼」である

今回の記事で、児玉晃一弁護士は、

「国会審議も経ずいきなり厳格化する国に誰が来ますか。1回やると政府は信頼されなくなる」

と批判している。

この指摘は、外国人受け入れに賛成か反対かとは別に考える価値がある。

仮に日本が、

「外国人をこれまでより厳しく選別する」

という政策を採用するとしよう。

それ自体を政策として支持する人もいるだろう。

しかし、その場合でも、

「どのような条件なら日本で暮らせるのか」

が明確で、

「その条件が簡単には変更されない」

という信頼がなければ、日本は外国人から見て魅力的な国ではなくなっていく。

そして、それは外国人だけの問題ではない。

企業が海外から人材を呼びたいときにも関係する。

大学が留学生を受け入れるときにも関係する。

日本人が海外で働くときにも、日本という国に対する評価が影響する。

外国人政策に反対することと、外国人を軽視することは違う

私は、ここを明確に分けて考える必要があると思う。

外国人の受け入れ人数を減らしたい。

永住許可を厳しくしたい。

不法滞在には厳しく対処してほしい。

外国人にも日本の法律やルールを守ってほしい。

こうした主張そのものを、直ちに差別と決めつけるべきではない。

民主主義社会では、政策について反対する権利がある。

しかし同時に、

「外国人だから」

「○○人だから」

という理由だけで、その人の人格を否定したり、社会から排除しようとしたりすることは別問題である。

政策論と差別を混同してはいけない。

そして逆に、差別を批判することと、現在の外国人政策を無条件に支持することも同じではない。

問うべきなのは「誰を日本人と認めるか」ではない

日本で暮らしている外国人に対して、

「あなたは本当に日本社会の一員なのか」

と問い続ける社会をつくるのか。

それとも、

「日本で暮らす以上、法律を守り、働き、税を負担し、地域社会の一員として生活している人は、その努力に見合った予測可能な制度のもとで暮らせる」

という社会をつくるのか。

これは外国人だけの問題ではないと思う。

社会に対する信頼の問題だからだ。

政府がルールをつくる。

人々がそのルールを信頼して人生を組み立てる。

そして政府もまた、合理的な理由なく、その前提を簡単にひっくり返さない。

そうした関係があってこそ、法治国家は成り立つ。

今回の永住許可厳格化をめぐる議論で、私たちが考えるべきなのは、単純に「外国人に甘くするのか、厳しくするのか」ではない。

日本という国は、そこで人生を築こうとする人に対して、どれだけ予測可能で、信頼できる国でいられるのか。

私は、そこをこそ議論するべきだと思う。

外国人の永住許可「抑止」案は「生身の人間の運命をもてあそんでいる」 東京・高田馬場で反対アピール:東京新聞デジタル
出入国在留管理庁(入管庁)による在留外国人の永住許可を事実上抑止するガイドライン改定案などに対し、外国人や市民らの反対活動が9日、東京…

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